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Steam版『フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと』感想

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(開発元: Giant Sparrow(アメリカ)/2017年)
(★★★★★/日本語版、コントローラー対応、クリアまで数時間)

【あらすじ】

 500年に渡る富と不幸の伝説に彩られたフィンチ家。その末裔・エディスは、ワシントン州オーカス島に残された実家の空き家を6年ぶりに再訪し、家族の思い出を振り返る。

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【感想】

 一族の思い出の品々で埋め尽くされた屋敷を舞台に、彼らの人生の末路を追体験していくウォーキング・シミュレーター。数年ぶりに再プレイした。

 フィンチ家の人々を襲う死の瞬間には共通点がある。それは、「幸福をもたらしたもの」が同時に「死因」にもなっていることだ。例えば「お風呂」がその人に幸福をもたらせば、それが「溺死」の原因にもなるといった具合に。
 だから「死」を描いたゲームではあるけれど、恐さはあまり感じなくて、むしろ幸せな気持ちがどんどん膨らんでいく興奮が味わえる。でも、その興奮は破滅へのカウントダウンでもある。その2つが渾然一体となった、他では得難い感覚を味わえるのがこのゲームの最大の魅力だ。
 中でも僕のお気に入りは、お風呂でおもちゃと遊ぶ妄想にふける赤ん坊のグレゴリー。それと、缶詰工場の職場で単純作業を続けるうちに、RPGに出てくるような王国の白昼夢に取り憑かれていく青年ルイス。この2人のエピソードが特に印象的。
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 さて、ゲームの中盤までは、そうした奇妙な物語のような「死」が描かれるが、長老格のイーディに逆らって、エディスの母・ドーンが家を出る辺りから「死」の描かれ方に変化が起きる。今回のプレイではそこが気になった。

 イーディは、伝説に彩られたフィンチ家の「伝説の続き」を作り続けることを好んだ人だと思う。「屋敷の地下に住むモグラ男」のゴシップ記事を部屋に飾ったり、夫はドラゴンに殺されたと語ったりした。屋敷の奇妙な内装も、彼女が作り上げた部分が多い。「語り手」としてのイーディは、事実よりも伝説を好んだ人物と言えそうだ。であれば、家を出る直前にエディスが受け取った本に書かれた物語も、海底から現れた旧宅で幻を見るくだりなど、どこまで真に受けて良いか疑問が残る。

 また、本を受け取る直前、イーディとドーンが口論する場面では、日本語字幕では「私の子供たちはそれで死んだのよ」と出るが、英語のセリフを聞き取ると「My children are dead about your story!」と言っている。ドーンは、イーディの物語によって子どもたちが死んだと解釈している。

 僕が思うに、おそらくこのゲーム中の世界には、一族を襲う「呪い」のような現象は無い。ただ、偶然起きた不幸を「伝説の一部」だと解釈したがる人が居て、個人の人生が「伝説を構成するパーツ」にされてしまうことが一族の不幸のように感じた。

 実際、家を出たドーンの死は静かなもので、劇的ではなかった。それはイーディの元を離れたことによって、語り手がエディスに切り替わったからではないか。そして、エディスはエディス自身の言葉で子供に人生を伝えようとした。また、語り手を失ったイーディの末路はあいまいである。
 この「視点(語り手)が変わることで、劇的な死が描かれなくなっていく」転調が今回のプレイでは気になった。つまり、この作品では「奇妙な物語のような死」の描写が印象的だが、むしろ、それとのコントラストによって終盤に「平凡な死」が描かれることこそが重要なのではないか。

 故人の人生を把握するには、残された語り手の言葉が手がかりになる。だが、注意しないと、語り手のドラマティックな演出によって、故人の人生が奪われてしまう。受け取る側も好奇心からドラマティックさを好んでしまう部分がある。しかし、果たしてそれは良いことなのか? 再プレイの今回は、自分の人生の物語を他人の物語に取り込まれないように守り抜くかのような終盤の展開が印象に残った。

P.S.

本作に影響を与えた『百年の孤独』に興味が湧き、読みはじめた。

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)